ポートレート ポートレイト 

 ポートレートとポートレイト

イなのかーなのか、どっちが正解な言い方なんでしょうね?

 

 そんな事を思っていた今日です。

 

 で、

僕は自分物の撮影の機会がとても少ない。

今日までの生まれ育った環境がそうさるのでしょうか、

前妻さんと子供の小さい頃の写真までは

EOSで撮ったものとかもあるんですが、

そこから数十年、15年以上どう考えても

撮るよ撮るぞと人っていうレンズを向けた写真は撮っていない気がします。

つか、無いといって良い頻度でしょうね。

もちろん時々写メで誰かを撮ったのとか

その後の仲の良い人とか写メやプリクラやら友人知人とかのそれらも

もちろんあるにはあるけど。

 

 

 

 

 

 僕って不幸なんでしょか。

 

 

 

 あんまり深く考えた事ないけど、考えないようにして来たけど。

 

 

 

 

 

 

 振り返れば、撮られる機会は普通にあった。

バイク乗りの時も必ずひとりは写真好きが居たし

音楽やってる時も、ライブの写真もらったり

見に来てくれたお客さんと撮ったり、バンドの時もボーカルグループの時もそう、

節々では自分の存在の履歴をきっとそれらの人のアルバムには

僕がそこそこそこには居るだろう。

 でも、

本格的に撮影活動をしてレンズを向けているものに

対人なものが僕にはあまりにも少ない。

僕が撮影係として撮ったものは

まぁそこそこセンスの良いものとして

幾人かの誰かのアルバムや携帯の中やパソコンにあるだろうが

僕のコレクションやライブラリには何故かそう言うものは皆無に近い。

 

 人に言わせれば撮れない人では無いし

ポトレを心情としている人に肩を並べるものを撮る潜在能力はあるっぽいと言われる。

 でも撮る側の人は、

ポトレ経験が少ない人なんて、幾ら風景がうまくても

ポトレは簡単に撮れちゃう程甘いもんではないぜ!

と、ポトレに命をかけている人は間違い無く言うんでしょうね。

 でも逆に考えてみて、

ポトレ心情の人が撮る風景があまりにも背景然として、

人を加えない想定だと物足りなく思う傾向が強い悲しさと

そうした雄弁と自慢の豪語の割に普段のスナップ風景の評価の薄さや

ぐっと来ない事の自他間の感想剥離には

注力する主力を逆転した第三者的に客観視した場合、

しっくり当てはまらない気もするのです。

車や航空機を主軸にしている人も風景や背景の捉え方はうまいし

ポトレも背景が良いと主題はもちろん活きる。

とか、そんなこんなは双方や色んなジャンルの中で論争はあるでしょう。

 

 ただ、かわいこちゃんを撮る方の一部に

普段の素行の端々からまでもに

エロいのが滲み出ちゃう傾向が隠し切れない人を身近で見て来たのが

僕を躊躇させている気がします。

ほんの一部の人だけど

一緒にされたくないし、同じに見られたくないし。。

 

 そこが、

写真家達のとてもイヤラシイ所で人として嫌いな所です。

主軸と得意分野を自分で限定してしまっている時点で。

僕は普段の写真から風景メインと思われるのが結構嫌でいます。

僕はノンジャンルの撮り手でいたいのが心情です。

僕なんかみたいなタイプの人を頭ごなしに上から目線で

オレって最高だろ、オレってイカしてるだろって

エロとエゴの垂れ流しみたいな

むんむんオーラで畳掛けて来られた経験があったもので。。

撮り手の力かモデルそのものの力なのかって撮らない人でも判るものですよね。

なのになのに、思い出しても面白くないわい! 

 

 このノートから苦情メールが来てしまう事は怖いですが

僕は、一般の人より人に対しての不信感や嫌悪感が異様に多い境遇を経験して来たので。

(ここは私の口から書きたくも言いたくもない事なので割愛しますが)

あえて僕はこういう人ですが、それでも愛読してくれますか?の

毒づく時のボーダーラインをこの辺だと今日は思って頂ければと思います。 

 

 

 

 でも

 

 写真って

やっぱ最後に行き着くのは人物の写真だね。

と、実は僕も内心はどこかでそう思う派なのです。 

 

 本当は

自分も人として写真に撮られたいし撮りたいタイプの人なんです。

 

 

 人間が放つ素敵なぐっと来る写真って

やっぱ本当は最強なんじゃないかなぁって思うタイプです。

 

 

 

 

 

 だからこそ、逆に、

 

 そこの部分で

人の存在のある写真にとても辛口になる心情が生まれたり

こつまんねえ人物対象の写真に面白くなく言いたくなる感情が芽生えるのです。

 

 僕が

人としての欠落があまりにある事と

私が望んで人物にレンズを向けられなくなった訳でもなく

根底の細胞のどこかが

今日までの生まれ育ってからの経緯や経過から

人物を避けるフォトスタイルとなっている訳で。

 

 誰しもが

今日までの生まれ育っての関係や経験や環境あって

知らずに形成されるのがフォトスタイルな訳で

僕はやっぱ

どこまでも究極の凡人であり、

究極にバランスに欠けた人でもあるなぁと

つい思ってしまいます。

 

 

 今日のこれは

別に悲しいノートでもセツナイノートでもなく

そんな事をふと思う今日でした。

 

 

 

 何かがもし、

一歩間違っていたならば

 

 もしかしたら僕は

フイルムも続けていていたかもしれない

 また、

ポトレばかり撮りたくて仕方の無い人になっていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 ほんと

生き方が下手な私です。

 

 

 

  地味で泥臭い生き方

地面に顔を押し付けられるような事

アバラが軋むような事

歯が磨り減る程口をつぐんだ事

 

 それらが自分を小さくしてしまったのでしょうね。

 

 

 

 仕方ないさ

一部の人に嫌われたって。

 

 

 ねぇ。。ったく。。

 

 

 

 ポトレの上手い人って

きっと僕みたいなタイプの人間すらをも

きっと間違い無く引き出して

画にして名作に出来る人だろうって思うの。

 

 

 

 

 そう思うし

そんな人と出会って

リスペクトして、それで影響されてみたいものです。

 

 

 

 美人さんを美人に撮るだけでなく

僕みたいな変人で地味で変で無個性で存在薄くて面白くもなく

見栄えもどこまでも普通で魅力薄な

僕のオーラを撮れる人に出会ってたいナぁ。

 

 

 

 

 

 

cozy

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013/04/11