一般と思考逆行

 どうしても有名地が僕は無理。

それから何本も三脚が並ぶ場所も根底から無理だし

撮る前から誰かの凡例と前例があって

何かが撮れる期待の前提が最初からある場所もイヤ。

 

人が嫌いと言うのではなく、

同じものに群がる心理が大嫌いであります。

同じ写真が世の中に2つある事が嫌でなりません。

 

同じ場所に立った人がいて

撮り手次第で違う観点は見られるだろうけれど

それは視点観点や切り口が違っても

その決まった定点から拾うという下心が一緒と言う

根底の大前提があるからかもしれない。

 

 それから

撮ったものを即効性と旬に合わせて即時の前出し公開も苦手。

上で言ったように同じものが2つ以上ある場合

仮に自分がそのうちの一人ならばその一枚が誰よりも突出した品位か

一日一秒でもExifに刻まれた時刻が早くなければそれは類似か模造か2番手でしかない。

だから、それだけで名写真である事や素晴らしいものの評価プレミアが数%でも下がる

その多数同一行動と、そうした大人数の悪い言い方で言えば標的になる撮影定点が

どうしても気持ち的に無理なんだと思います。

 

 僕の撮った一枚が

他の世の中に2枚と無いものだったらどんなに嬉しいだろう。

そしてもし仮に僕の撮った一枚が何人も撮影していたらどうだろう。

もちろん写真友と感動の共有や同じ定点で同行して撮影をするのは楽しいし

前回のストーリーにあるK君との撮影や、過去に訪ねて来てくれたネット距離のコとの

同行して便乗する撮影は楽しいものだけれど、

それはワングループかワンペアまでだから良いのであって

そうしたブロックの固まりが幾つもで一つの被写体に群がるような

桜の名所や湖畔の朝日夕日とかの名定点には嫌気が差すのです。

皆が集まるものを欲したい心理に僕は真っ向から逆思考でありました。

 

 富士山やスカイツリーや桜の名木とか風景の象徴とされるお題は良いだろうが

もし自分が撮ってみたいと思うそうした対象であっても、訪ねて行って先客が居たら、、

もう、、、ねぇ、ですよね。

そしてこの昨今のネット速報性の時代に複数人の複数の同じくして撮影されたものが

同じタイムラインに並ぶような事を頻繁に目にする今日この頃のそれは、

僕も席を同じにしたかったとはならないはずで、見せてもらう側も同様ではないだろうか。

 

 子供の時に作っているプラモデルを父や母に途中から作られてしまったらどうだろう。

自分が型紙を作って洋服を裁縫しているものを他の人に縫い上げられたらどうだろう。

料理で下ごしらえしているものを勝手に煮炊きされたらどうだろう。

生き方の上手い人や子育ての分る上手い人なら

子供のプロックは積まずに子供の脇で付き合ってあげる事や見守る事に専念すべきはずだし

会社で部下を上手に扱う人ならば手を貸さず横やりを入れずに最後まで纏めさせるだろうし

料理人なら皿に上がって評価するだろうし、大工でも途中でテコ入れと支持はあったとしても

弟子に遂行の全貌を委ねた上で精度と評価を落とさないアシストとするはずだ。

バーゲンセールに群がる写真好きと言うか、また、観光と言う灯りに集まり群がる心理は

夜のコンビニの入り口のあの虫退治のパチパチと何ら変わり無い気がしてならないのです。

 

 週末を楽しく多数で楽しむにしても写真をベースとして写団やサークルの撮影会にばかりなって

月の半分が人と同じ料理教室のテーマと素材を同じにした料理になったり

一人のモデルを囲んでデッサンを学ぶ事は、もう学校の授業と花嫁修業の時点までで終わらせないと。

まだまだヒヨッコと言う事になってしまう気もしたりしますね。

 

 写真と言う作品を生む足を運ぶ事から視点観点から撮り終わって写真を歩かせる事までを

全てオリジナルなものとして自分の写真を扱いたい人はきっと僕と同様の感想を持つのではないだろうか。

 

 半面で写真好きのあの日とと同行してフォトライフをしたいなぁって心理もあるのですが

それは多くの人が群がる総合デパートに足を運ばずに、

お互いの得意点を分け合ったり、お互いで新しい何かを引き出しあえるものとして遂行したいものです。

私の場合、うっとうしい写真仲間が居ないからやって来れて、良い人が刺激をくれるから

長年良いペースでフォトライフをして来れた気がしていて

それが地元の写団やサークルやネットワーク繋がりでどこへ訪ねても誰かと繋がったり便乗の仕合で

月の半分を埋めてしまうようになったら、

きっと晩年のフォトライフに開拓の馬力が薄れたり、撮る上での視点観点や

色んな新しいものをゼロから探し、

色んな新しいものをゼロから感動したり

色んな新しいものをセロから発見したりする時の

大事な大事な基本の素性の心の張りの触れや自発で目覚める伸び代が減ってしまうような気がするのです。

時には

カルチャー倶楽部や、寄り合いや、文化部になってしまったらイケナイ事もあると思うのです。

 

 写真はとても繋がる要素に特化した文化だけど

写真作品の価値は一匹狼とロンリーでオンリーな要素も必要であると思うのです。

 

 

 

 情報と感動に始めて出会う時の感動を

自分の手と足と自分の五感で感じた時のある数がある人が

後に秀でる撮り手になって行くんだと僕は思います。

決して

どんな手を使っても多くを簡単に手に入れようとする気持ちを心の根底に持たない人だと思います。

 

良い撮り手は

刑事よりも探偵よりも

素敵の根源とにしか住んでいない天使探しの上手い職人さんなのでは無いでしょうか。

良い器材でもレンズでも、良い情報探し辞書引きネットワークやチームでも無く。

 

 

 

 

 

 

cozy

2014/4/16