幾粒かの涙


      写真が難しい事の要因は

とてもシンプルに

一枚の滞空時間の短さにあると思うんです。

 

 引き合いに出すのはおかしいと言う前提を抜きに考えると

例えばドラマや舞台のようにひと1人を2時間引き止める力はなど毛頭ないですし

音楽の一曲で3分5分に詰め込めるものの質量も一枚の写真では比較すれば希薄だ。

だから音楽ならコンサート、ライブという表現設定があり

写真ならば写真集とか写真展という引き寄せ方もある。

 その半面、

ドラマも音楽もWebの半分のスペースで説得をする事は出来ない。

雑誌や本やのページを開いた瞬間に説得する事も出来ない。

そう言う意味でちょっと面白いですよね。

 

 さて、そして

 

 貴方はドラマや音楽で少なからず涙した事ってあると思うんです。

歳のせいで涙もろくなるのは医学的にの老化の要因とは言うが(笑)、

それを差し引いても

経験や体験をすり合せたりダブらせたりすると

若き青春の感情や家族や友や大事な人との出来事で

悲し涙に限らず、うれし涙、悔し涙、感動、興奮からの涙を誘われた事はあるはずだ。

 

 人の多くは映画やドラマの作家のように

壮大なシナリオと共に時間を費やして

人の心を動かす一本の物語、ストーリーを形として書き上げる事の出来る人の方が少ない。

またそれは、作詞作曲して自らが歌って人の細胞をふるわせる事が出来るかと言う事も同じで

大多数の人には出来なく、ごく限られた人の能力でもある。

 

 僕は過去に

不思議な力の加わった目に見えないものを借りて

歌と歌詞とメロと演奏で人を涙させると言う体験を経験しています。

4分で人に振れる事無く細胞をふるわせると言う経験です。

今の僕にはその魔法の力はもう無いのですが

少なくとも僕の作詞作曲した歌と、先輩の作った歌の2曲の計三曲は

僕の当時のボーカル曲をもってしてもその力がありました。

その魔法はどえらいもので

最低一番の歌い出しからサビまでの時間は必要なものではなく、

数度足を運んで聞き覚えのセンサーが身体にあると

サビ頭の構成だったので数フレーズ目から効くのでどえらいドラッグですね。

 

 そして

 

 僕はここ数日で

例の愛犬はなちゃんの写真でまたその経験をしました。

ただ今回はその魔法の力を持っていたのは愛犬はなで

僕は音楽で言う作曲者であり演奏プレイヤーであり、

ボーカリストははなちゃんでしたが。

雑誌フォトコンとネットの反応での涙した反響は半信半疑でしたが

実際自分の生の環境の下でその魔法の効力の真実味を感じてしまいました。

はなちゃんと触れ合った環境下の方が雑誌見開きで対面した時に

その魔法の力がとてつもない事を。

これもきっとサビ頭な曲構成といって良いかもしれませんね。 

 

僕は

そんな事から

ずっとアマチュアで音楽をやって来て

とにかく縛られた気がします。

長くは語りませんが、逆にスッパリ諦めてもう悔いも未練もないと

話しの中で何度も事あるごとに言い切った事も鮮明に記憶にあります。

僕はもう自分の肌で乗り越えられない壁と取り巻く実情から

その能力も魔法の術も運も、現実的にその歌を歌えない声になった事も合わせて。

 

 はっとしました。

 

 例のはなの写真のキャプションやお礼に

私は同じ事を書いているではないですか。

 

 自分の店から

僕の楽器とiBookと仕込みの残りと、

もう注がれる事のないグラスだけが棚に並んだままのがらんどうの店で、

暗い中スポット光の光跡の中にホコリが踊り注がれ

まるで

明日のジョーが灰になる感覚になったあの日の事を

今でもを怖いくらい鮮明に覚えています。

涙とは違う、

水分や潤いの類が

 

全て身体から抜けてゆく感覚です。

 

 僕は

今後のフォトライフの先が正直見えません。

表でははなの偉業に応えるべく、

何があっても元気を出してパワフルに躍進出来る、

そんな風に映るだろうし、そう言い切っている。

それだけの運が廻ったはずな事も間違いも無いのですが。

 

 あの時は

自分ではどうにも出来ない外力のせいにも出来た。

精神的なもの克服解消さえすれば、

もしかしたら今でも歌える声だってあったかもしれない。

ストレスと不摂生がなければ、今でもカラオケ番長くらいで居れたかもしれない。

アンプは蹴り壊したからもう無い型番で取り戻せないけど。 

 

      この先

僕は写真を撮らなくなってもFXレンズだけは絶対に売らない。

あの時、幾粒かの涙の責任を負えなくて逃げるような日々だったから、

 最低でも

はなの為の幾粒かの涙の責任は

これからもその方々の為にも抱えて行きたいのだ。

 

 あの時の

夢は叶わなかった。

叶わなかったのでその先のあれこれなんで毛頭なかった。

そして先なんて何も見えなかった。

 

 僕のフォトコンで最大級の間口で一番穫りにくい部門で穫るぞの夢は叶った。

叶うと思わずやって来たのでその先は無い。

確かにその先なんて何も見えない。

 

 ただ、

文字ではうまく書けないけど

あの時と今とでは

何もかも同じだけど、何かは絶対的なものは違うと思いたい。

あまりに似た灰になる感覚が怖いし2度とイヤだ。

夢も希望も兆しも予感もこれっぽっちも無いのだが、

 

 時が解決したものに

幾粒の涙の何たるかの何かが

根底の原理とか大きく含みをくくったとしてでも

 

 時が流れた事の違いは

幾粒かの何かの色んな意味も重みも

どこかで

ページをめくったら

次の白紙のステージが迷い道のような筋書きになっているだけでは

僕自身がまっぴらだと思える事なのかもしれない。

 

 僕は

人を細胞の何かを震わせる歌声などもう要らない。

 

 ただ、僕は、

この先もフォトライフをやって行ける

自分ではどうにも出来ない魔法の力をもうひとつだけ欲しくている。

 

 今度は

はなちゃんの力無しに

効力を発揮出来る魔法を探したくている。

 

 

  2度と越えられぬ1曲を書いてしまったのだから。

合わせて、一番上の席からしか見れない展望の再確認をするという

とてつもない夢物語のシナリオも書き終えてしまったのですから。 

 

 加えて、

想定の出来ない環境変化と環境苦&経済苦。

 

 

 苦しいのは当然です。  

 

 

 

      くそぉ

窓の外の光がどえらく良いんだ。

 

 

  なのに

僕を誘う何かの予感がさっぱりしないんだ。

 

 

 

 でも、

まずは

Macはスリープにして

夜までリターンキーは押さないようにするつもり。

 

 ちょっと

これって進歩だと思うんだ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

cozy

 

2013/08/31